昭和40年05月18日 朝の御理解
おかげを頂きましてどうぞ、神様がくださろうとするおかげ、まあそれを自由自在に頂きこなせる、おかげを頂きたいと思う。自由自在に私はおかげを頂ないけん、それにはどうでも自分の心が、自由自在な所謂収縮自在な、心の状態にある事のおかげを頂かにゃいけません。伸んだら伸んだぎり、ちじんだらちじんだぎり、ね、あの調度ゴムバンドのような物、収縮自在はなしゃサット小さくなる。
そんならどんなんでも大きくなる。ね、あれがあの収縮自在なゴムならゴムがです、伸びたっきりになった物ぐらい見苦しいものはないでしょうが、水の中でほとびってしもうてからくさ、こう伸びたなりにあるです、兎に角ねはずむようなもった信心じゃつまらん、パットつつきゃですね、だだじ色になっとるのが。ごむまりですね子供が使います、手まりのようなそのはずんだ心。
ほっとかりゃなんでもないし、突かれたらポンとこの上に上がるような信心、向こうに投げつけられたらポット打って返ってくるような信心、ね、収縮自在お道の信心させて頂くものはね、そう言う信心を身につけて行かなきゃいけません、叩かれりゃ泣く、怒りゃ腹かく、と言ったようなものではなくてですたい、ね、例えば踏まれても蹴られてもです、そこからおかげの頂いていける信心、ね、
叩かれれば返って元気が出ると言う信心、笑われれば返ってそこから賢こうなって行けれる信心、ね、その為には自分の心がです、本然とパットこう切り替えて行けれると言う信心、自分の心の上に本当にこの自由自在な心のより使い方とでも申しましょうか、ね。より収縮自在の信心、例えば私がここでこうおかげを頂くようになって、今年がまる十五年その十五年間の間に、こりゃ私と善導寺の親教会の関係の事。
思うて見て下さるといいと思う、五年間空白時代があった、ね、御無礼した時代があった、けれどもひとっつも空白ではなかった、ね、ひっぱり出されて使われれば、いつでも御用につこうて頂けるだけの内容を持っておった。ね、許されればいつでもわたしゃって意地を張った事は一辺もなかった。現在でもそうである、別に私がこうデシャバッてどうとこう言う事ではないけれども。
これは大坪さんじゃなければでけんと言うような時には、もういつでも私は率先して御用頂こうと思うておる。御用だけの事ではありません、何かにつけて同じ事、あん時あげな事言うたけんで、わたしゃって言ったようなもんじゃない、おかげで私自身がまあこのていどではありますけども??自由自在なおかげを頂いておる。もう実に私はこれはこころの状態の上にも、経済なら経済の上にでも、健康なら健康の上にもそうである。昨日は体が悪かった。
一昨日は伊万里の直美会のお祭りを奉仕させて頂いたからあちらで、そん時には全然体も普通のとおりにおかげ頂いて、活動でけた。昨日は悪かったけれども今日はまた元気でおかげ頂いておる。もう収縮自在でしょうが、今日この月並祭、ね。自由自在におかげ頂くと言う事、うんならお金ならお金の事でもそうでしょうが、ね、私に一万円なら一万円と言う、使うて減らぬ金百両と言うが、ね、
使うて減らぬ金一万円、今の言葉ですから言うなら言うでしょうね、私にならさあ使うて減らぬ、一千万円と言う徳を受ければ、使うて減らぬ一千万円のおかげになるでしょう。それはその時その時の信心なんですけどもです、ただ今現在私にです、使うて減らぬ金一万円と言う事になったら、もう私は使うても使うても、一万円のおかげは頂けておると言う事、そりゃ例えば一万円をばら撒くような使い方をせすればね。
そりゃ頂きますまいけれども、必要なら必要に応じて、絶対必要であるならばです、たちどころにでもおかげの頂けれると言う、事実を皆さんご承知の通りなんです。ですからドンドン信心高められてです。一万円の徳が二万円の徳になり、二万円の徳が五万円の徳にならして頂く、そこに信心の楽しみが限りなくある訳なんです。ね、その範囲であるならば自由自在のおかげを頂いておると言う事。
為にはまず自分の心の上にです、自由自在な、ね、自由自在なと言う事はもう有難い、もうどんな場合でも有難いて言う心の使い方なんですよ。どんな場合でも勿体無いなと言う心の使い方なんですよ。どんな場合でもです、あいすまん事だなぁと言う心の使い方なんです。場合にあいすまんが出てきておる、場合には有難いが出てきておる、ね、ある場合には勿体ないなと言うものが出てきておる。
どちらへ転がされても有難いか、勿体ないか、あいすまんかばかりである。そげなこち言うたちのて腹かくと言うものが全然出てきとらん??心よごすもんが出て来とらん、まがった心がでてきてないと言う事。しかもそれが収縮自在、その時その時で自分の心が、ゴム鞠のように弾んでおると言う事。心転がされて行けばチャンと静止しておる。ね、かと思うと突かれるだんになったら、言わば飛び上がって突かれておる。
はじきかえっておる。昨日一昨日伊万里行きの帰りに、竹内先生の御案内で、(向山揺曳たいざんようよう?)ですか?山に向かうと書いてあります。あの窯を見学させて頂いた。それをあの普通の陶器と違って、何て言うんですかね、近代様式の建築なんかに使う陶器類が、でけておる所です。見事なより芸術的な作品がでけてるんですね。現代風の、そこを見学させて頂いたんですけれども、そこの入り口がですね、そこの塀がですもう実に見事な、見事なって言うかね、渋いと言おうか、兎に角見事でした。
それが全部ですね、焼きそこないの陶器ででけているんです。もう色取りどりのですね、丁度あのレンガの焼きそこないのような感じのですかね、そう言う陶器が言うならば、もう捨てられなければならないものがです、全部こう配色形をですね、自由自在に活かしてある。そしてその塀がでけておるのです。ありゃもうそりゃ見事なもんでした。ね、ワザワザそう言う事の為に、作ったかのように見事でした。
けども結局焼きそこないの、そう言う風に活かしてあった訳なんですね、わたしゃそれを見てから思わして頂いた、ね、信心させて頂くものはまず、自分自身の、ほんなもんじゃないて言う事を知る事なんです。言うならば心の不愚者であると、言う事の自覚に立つ事なんです。わたくし今も申しましたね、わたしの心が、いつも自由自在、有難いが出が、勿体ないが出、ね。
あいすまんが出る、それは自分自身が心の不愚者であると、自分自身が屑の子である、ほんなもんじゃないわたくしであると言う、自覚からしか生まれて来ないです。あいすまんもあたくしぐらいのものに、各迄のおかげを下さると言う事なのですから、あたくしは頭がようして、ね、器量がようして、火の内どころがないわたくしであると、言ったような思い方からは、生まれてこないです。
生身の心と言うものをです、教えなら教えの鏡に照らして見るがいい。不完全な汚い浅ましい、そう言うわたくし達なんです。そう言うわたくし達にも関わらず神様はです、おかげを下さっているんです。ね、そこでです、私達がですね、そう言う例えば向山ようぎょうで、わたくしが感じたようにです、言わば屑の集まりなのである、あの塀なら塀が、もう普通なら使いものにならないわたくしなのです。
神様なればこそ使うて下さるのである。あたくしがごたっとば、どこに持って使いようがあろうか大体言うたら、ね、けれども神様なればこそこうやってお使いまわしを下さるんだ、しかも完全な無欠なと言ったよりも、かいってえぇ趣きがある、と言うように使い上げてくださる。お互いがです、まず、ひとつ屑の子の自覚に立たなければいけません。子供にもだから詫びにゃ、本当にお母さん私のようなと主人にも家内にも、自分がよかつのごと思うとる所に、私はおかげを頂けん元があるとこう思う。
そう言う例えば屑の子である屑の子の自覚を持って、しかも弾んだ心それにはです私達がどう言う所に使われてもです、どう言う所に使われても不足は言わん不平は言わん、と言うおかげ頂く事だと言う事です。私が一番貧乏くじひいとる、私が本当馬鹿んごたる縁の下の力持ちだとね、その貧乏くじが宝くじである事のおかげを頂く事を分らして貰う信心は、いくら貧乏くじをひい取者が実際は宝くじであったと言う事。
縁の下の力持ちがこんな馬鹿らしい事はない、と言う時にです愈々力が出来ておったと言う事。表面でおだてあげながらあ使われると言う事がです、返っておかげ落としの元であったと言った様なですね。事になってはならんのですね、そこを陰徳と言う言葉で、言うなら言えるでしょうね、だぁれも知らんけど影で一生懸命徳を積んでいると言う事。それが愈々の時には光ってくるのですね。神様だけがご承知の世界に、生き抜く事なんです信心とは、それも自分自身の言わば屑の子の自覚である、屑の子の自覚である。
その向に収縮自在自分の心を大きくも小さくもどんな場んでも、持っていかれてもおかげ頂ける実力をやしなって行くと言う事ね、言うなら椛目に御神縁頂いている、皆さんの全部がです屑の子の自覚に立たなければいけません。皆さんは屑もの心の不愚者ね、目のない者にはだから目を下さり、足のない者には神様が足を下さる。そして自分の心の底にです私しの様な者でも、何処の端にかお使い廻しが頂けるならば、ね、
御用に立ちたいお役に立ちたいと言う念願に燃える事だと、私のようなものでもです、私のようなものでも、お使いの場があるならばです、使うて頂きたいと言う願いを持つ事なんです。それは、はずむ心だと私は思うですね、お役に立ちたいお役に立ちたいと言う願い、ね、どうぞひとつ皆さんがですね、収縮自在な弾みのある信心、まず自分の屑の子であると言う自覚から、私のような不完全な私はないと言う事、私の様な横着者
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